記事の掲載日: 2026年6月27日
若手音楽家育成事業 プラットワンコインコンサート
中村由紀子「記憶とウタ」
2026年6月30日 (火)11:30開演
穂の国とよはし芸術劇場PLAT アートスペース
プログラム
J.S. バッハ作曲 リュート組曲第1番 ホ短調より プレリュード アルマンド BWV996
この曲は、ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685–1750)がワイマール時代(1708〜1717年頃)に手がけたとされ、彼のリュート、あるいはリュート・チェンバロ(ラウテンヴェルク)のための作品群のなかでも比較的初期に属すると考えられている。
第1曲「プレリュード」は、性格の大きく異なる2つの部分から構成される。前半のPassaggioでは、和音の響きのなかを単声のアルペジオ(分散和音)や自由な音階進行が巡り、拍子感に縛られない即興的な序奏を展開する。後半は、Prestoというテンポ指示が与えられた厳格な音楽へと移行し、独立した4つの声部が緻密に絡み合う対位法により、終結まで一気に駆け抜ける。
続く「アルマンド」は、ドイツ起源の舞曲に由来し、流麗で端正な旋律の中にバッハ特有の精緻な声部書法が息づいている。
C.P.E.バッハ作曲 (名倉誠人編曲) スペインのフォリアによる12の変奏曲
「フォリア」とは、15〜16世紀のイベリア半島に起源を持つ、極めてシンプルなコード進行と物悲しい旋律からなる音楽である。 その魅力は時代や国境を超えて受け継がれ、コレッリ、ヴィヴァルディ、ラフマニノフなど、多くの作曲家たちがこの主題に新たな変奏を施してきた。
カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1714-1788)は、大作曲家J.S.バッハの次男であり、父の築いたバロック音楽の厳格な伝統を引き継ぎながらも、古典派への過渡期において「多感様式」という新たな音楽表現を切り拓いた。人間の揺れ動く感情を繊細かつ劇的に描き出すその作風は、後のハイドンやモーツァルトにも大きな影響を与えた。
本作品はニ短調の哀愁を帯びた主題に続き、12の変奏が次々と展開される。華麗な分散和音や目まぐるしい即興的かつ技巧的な変奏や、思索的で和音の変容が際立つ内省的な緩徐部分とが鮮やかな対比を生み出し、多感様式ならではの豊かな感情世界を描き出している。
G.F.ヘンデル作曲 オンブラ・マイ・フ (ラルゴ)
1738年にヘンデルによって作曲された歌劇 セルセ 第1幕冒頭のアリア。ペルシャ王セルセが木陰をつくるプラタナスの木に向かい、その美しさと安らぎを讃えて歌う。「これほど愛しく美しい木陰はかつてなかった」という穏やかな歌詞に寄り添うように、静かで気品に満ちた旋律が流れていく。
この作品が書かれた18世紀前半、ロンドンでは長く人気を誇ったイタリア・オペラの人気に陰りが見え始めていた。そうした時代の変化の中で、ヘンデルは従来の華やかな技巧や劇的効果だけではない、より簡潔で内面的な美しさを持つ表現へと向かっていく。一見すると極めてシンプルなこの作品には、そうした時代の転換点に立つヘンデルの成熟した音楽観が表れており、約300年を経た今日においてもなお、多くの人々に愛され続けている。
ギジョ・エスペル作曲 サンバ 〜あなたのいない静寂に耳を傾けて
アルゼンチンの作曲家・ギタリスト、ギジョ・エスペル(b.1959)によるこの曲は、同国の伝統的な舞曲・歌謡形式である「サンバ(zamba)」を基盤としている。ブラジルサンバ(samba)とは異なり、ゆったりと揺らぎのあるリズムと郷愁を帯びた旋律を特徴とし、アルゼンチンの人々の暮らしや風土と深く結びついている。
詩的な題名が示すように、本作は雄弁に語るのではなく、静寂の中に潜む感情や記憶に耳を澄ませるような世界を描く。素朴で温かな旋律は、ときに語りかけるように、ときに遠い記憶を辿るように歌われ、内省的な響きの中に深い情感を湛えている。
安倍圭子作曲 わらべ歌による譚章
安倍圭子(b.1937)は、世界的に活躍するマリンバ奏者であり、作曲家・教育者としてもマリンバ音楽の発展に重要な役割を果たした。本作品は、自身の幼少期の記憶をもとに、かつての日本の日常に溢れていた「音の記憶」からインスピレーションを得て構成された作品である。
この作品には、日本の伝統的なわらべ歌である「通りゃんせ」と「てるてる坊主」の旋律が使用される。誰もいない路地に響く下駄の音や、遠くの夏祭りから聞こえる笛や太鼓の響きが持つ、賑やかさと哀愁が同居する懐かしい世界観が描写される。また、安倍作品に特徴的な「間」の表現や、変拍子のエネルギッシュなリズムによって、あえて拍子感の安定性を崩す語法が駆使され、音楽が展開していく。その自由で有機的な流れは、断片的な記憶が次々と呼び起こされる様子を思わせる。
現代社会では徐々に失われつつある土着的な音の記憶を、5オクターブ・マリンバの豊かな表現力で描いた、情熱的でダイナミックな変奏曲である。
スーミン・キム作曲 …鳥たちの足跡を覚えていない
韓国人作曲家のスーミン・キム(b.1995)は、この作品について以下のように述べている。
「この作品は、記憶と忘却についての、どこか曖昧な作品である。ただ、小さなモジュール状のアイディアがある種の論理に基づいて展開されていることは明瞭に覚えている。数年ぶりにまたこの作品を聴き直してみると、作品自体がすっかり独自の意味を持つようになっていて、それを生み出した理論は、ただの過去のもののように感じる。」
タイトルの元となった詩「문병(お見舞い)」より、一節を紹介したい。
아무것에도 何事にも
익숙해지지 않아야 慣れてしまわなければ
울지 않을 수 있다 泣かずにすむ
해서 수면은 だから水面は
새의 발자국을 鳥たちの足跡を
기억하지 않는다 覚えていないのだ
スタンリー・マイヤーズ作曲 カヴァティーナ
イギリスの作曲家スタンリー・マイヤーズ(1930-1993)が1970年に発表した、映画音楽およびクラシック・ギターのレパートリーとして世界的に知られる小品である。
元来は映画「歩兵の歩み(The Walking Stick)」のために書かれたピアノ曲であったが、名ギタリストのジョン・ウィリアムズの勧めによりギター独奏曲へと編曲された。さらに1978年のアカデミー賞受賞映画「ディア・ハンター(The Deer Hunter)」のメインテーマに起用されたことで広く認知されることとなり、今日ではクラシック・ギターを代表する作品の一つとして親しまれている。
タイトルの「カヴァティーナ」とは、18〜19世紀のオペラなどで用いられた「短くシンプルな抒情的歌曲」を意味する。本作もその名のとおり、無駄を削ぎ落とした素朴な旋律が静かに歌われ、深い叙情性を湛えている。穏やかに流れる旋律は、どこか懐かしさや郷愁を呼び起こし、聴く人それぞれの心の記憶にそっと寄り添う。
出演者プロフィール
中村由紀子 なかむらゆきこ マリンバ
岡崎市出身。京都市立芸術大学を首席で卒業。京都市長賞受賞。ジョンズホプキンス大学ピーバディ音楽院GPD課程、修士課程をArtistic Excellent奨学金を得て修了。イェール大学音楽院でロバート・ヴァンサイスに師事し、授業料全額免除の奨学金を得て修士課程を修了。 レパートリーはマリンバのために書かれたオリジナル作品を軸に、クラシックにおいてのマリンバ音楽の発展に力を注ぐ。室内楽奏者としても意欲的に活動し、数多くの室内楽・オーケストラ作品をアメリカで初演。23,24年には中国深圳にて4回にわたる演奏会を開催。エミー賞受賞作曲家Garth Neustadter作曲Seaborne 〜打楽器6重奏と映像のための〜 や、エレクトロニクスを用いた作品等、打楽器の新たな可能性へアプローチしたプログラムで好評を得る。ルーマニアで行われたContemporArtフェスティバルにゲストアーティストとして招かれる。2025年には、電気文化会館ザ・コンサートホール(名古屋)にてソロリサイタル、京都文化博物館(京都)にてデュオリサイタルを企画・開催。 現在は、愛知と京都を中心に演奏活動を展開しながら、後進の指導にも力を注いでいる。名古屋音楽大学講師。
スタッフ
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